日本任俠道の歩み 3

 

   その三   

侠客 清水次郎長

 

新門辰五郎の兄弟分であり幕末の侠各として名を売った、清水次郎長こと山本長五郎は、文政3年(1820年)正月元旦、駿河国在り有渡郡清水町美濃輪町の高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれ、望まれて実母とよの弟の叔父で、米穀商の甲田屋の主人山本次郎八の養子と成った事から、「次郎八のところの長五郎」が訛って、『次郎長』という通称になったという。

 

幼少時代の次郎長は手のつけようのない悪餓鬼で、当時、問題児の預かり子という教育習俗があり、次郎長も親戚門人の間で預けられる事となる訳だが、悪童ぶりを発揮して次々に断られ盥回しにされたが、反抗の域は益々高揚し終いには、その預け先の村全体を敵に回すに至ったという。

 

そんな悪童振りも抵抗するのが馬鹿らしくなって、数え年15才で初めて悔悟の色を見せたとある。

 

15才で養父母の下に戻った次郎長は、養父次郎八に申し出て、江戸に出て一旗揚げようとするが聞き入れられる訳もない。次郎長は思いあまって養母の隠し金四百五十両を盗んで江戸に向かうが、途中三島宿で捕え連れ戻されてしまう。養父が持って出た金を回収しようとしたが有る筈の四百五十両の金の内、三百両しか持っておらず、百余両の辻褄が合わない。起こった養父は次郎長を真っ裸にして追いだしてしまう。

 

次郎長は、それを見越して隠して置いた百余両の金を持って江戸に向かい、養父の取引先の仲買商に託し米相場に投資、高値の処で精算してたちまち一攫千金を得て清水港へ土産を山積みにした舟で凱旋した。

 

甲田屋の前に土産を山積みにし、借りて居た金も返した上でこれまでの悪行を詫びたという。

 

養父の次郎八が天保6年(1835年)に死去した為、次郎吉は甲田屋の主人と成り、四、五千両の遺産を名目上相続するが、財布を握った養母の放漫な濫費から家産は日々衰えて行き、終いには情婦を作って有り金持って出奔してしまった為、次郎長は妻帯して勤勉これ努め、傾きかけた甲田屋を盛り返すほどであったが、一方では博奕や喧嘩を繰り返し、天保14年(1843)喧嘩の果てに人を斬ると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、江尻大熊ら弟分と共に出奔し無宿人となった。

 

無宿人と成った気軽さからか放縦無頼な生活であったが、唯一、実践に備えて武術の鍛錬のみ熱心であったらしく、旧備前藩士浪人小川武一(吉良の武一)に弟子入りし、必殺の剣技を習得したとある。

 

弘化2年(1845)には甲斐国鴨狩津向村(市川三郷町)の津向文吉と次郎長の叔父和田島太右衛門の間で出入りが発生し、次郎長はこれを調停している。

 

諸国を旅して修行を積み交際を広げた次郎長は、やがて清水湊に弘化4年(1848年)28歳にして江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、一家を構えた。

 

この時代の次郎長の事跡については明治初期に養子であった天田五郎の『東海遊侠伝』に詳しい。

 

安政5年(1858年)12月には甲州における出入りにおいて官憲に追われ、逃亡先の名古屋で保下田久六の裏切りに遭い、安政6年(1859年)には尾張知多亀崎乙川において久六を斬殺する。

 

その後は富士川舟運の権益を巡り甲州博徒と対立し、黒駒勝蔵と抗争を繰り広げる。

 

慶応4年(1868年)3月9日、幕軍勝海舟の命を受け、山岡鉄太郎が官軍東征大総督府の陣営がある駿府(現・静岡市)に赴き、官軍参謀西郷隆盛に強引に談判を申し入れ、無血開城の地ならしをした江戸城無血開城駿府会談の際、山岡の手引をし望嶽亭に匿い、会談を実現させた。

 

慶応4年(18683月、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より街道警固役を任命され、この役を7月まで務め、

 

同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡し、その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。

 

この件を新政府軍より咎められたが、『死者に官軍も賊軍もない』と言って突っぱねたという。

 

当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は これを深く感謝したという。次郎長は明治において山岡鉄舟を師と仰ぎ、また、榎本武揚とも交際したとされる。

 

博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためにはの販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑がある。

 

しかし血腥い事件も彼の周辺で起こっており、次郎長不在中に久能山の衛士に3番目の妻を殺されている。また有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊や、遠州報国隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には、駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させない為に弱い者をかばっている。

 

明治17年(1884年)には「賭博犯処分規則」により逮捕され、懲罰7年・過料金400円に処せられ、井宮監獄に服役する。関口隆吉やなどの尽力などにより、刑期の満了を待たずに仮釈放になった。

 

明治19年(1886年)東京大学医学部別課を卒業した植木重敏と横浜から土佐に向かう船上で知り合い、植木重敏と同じ土佐須崎鍛冶町出身の渡辺良三と共に清水へ招聘し、済衆医院を静岡県有渡郡清水町に開設した。

 

明治26年(1893年)、風邪をこじらせ波乱万丈の生涯を終える。享年74(満73歳没)。

 

戒名は『碩量軒雄山義海居』

 

静岡県静岡市清水区南岡町にある、梅陰禅寺にその墓を見る事が出来る。次郎長の墓を囲む清水一家若衆の墓と共にひっそりと建っている。